グリーフに少しでも触れる話への反射

本日、以下のFacebook投稿をしました^^

普段、カウセリング系の方々に馴染んできていると、ふとした時に、その違いは感じやすくなるものですね(^^)

「傾聴」という言葉は知っていたとしても、傾聴マインド、その視点や在り方が、どこまであるかどうかの違いは、隠しようがなく、とても大きいと思うところです。

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むらたのFacebookは、こちら

(投稿内容)

当事者になって感じられてきたが、グリーフに少しでも触れる話は、前向き・生産的な感覚で述べていても、即、脊髄反射のように「後ろ向き・タブー系・マイナス」のように捉えられることも少なくないようだ。

一般的に戸惑われやすいものだからと、どれだけ、さじ加減に注意して触れたとしても、どれだけ人間関係があったとしても、受け手のニュアンスは受け手のもの。
 
もちろん、受け取り方は受け手により全く違うだろうが、しまいには「同情・憐れみ」のような脊髄反射など……。
 
固定観念や先入観の為せる技はおそろしいと、自分自身もどこか、そうではなかったかと思うと、しみじみ考えさせられるものがある。
 
言葉の端々に滲み出ている、それらを知りたかったわけでもリサーチの意図でもなかったが、思ったより蔓延しているのは、それもまた世間かと思う。

これは、もし当事者がセルフケアの心得が浅薄にしか知らなかったとしたら、その効用を強く実感してきていなかったとしたら、聞くに耐えないかのような心情にもなるのではないだろうか?

また、それらの脊髄反射はグリーフ体験者であろうとも、することがあるようだ。

それは自分自身に対して、何かしら蓋をして抑圧してきたままでいることへの合理化、または転嫁とも言えるのではないだろうか?

つまり、自分に深く優しくしてこれていないと、他人に優しくすることを、どのようにすれば良いのかが、まるで表面的にしか思い浮かばなくなる構図のような気がする。

他人の話であっても、何かをほじくり返されるような、抉られるような得体の知れない怖さを感じるから、条件反射で返すより他なくなってしまう心情。

年月をかけてでも、ゆっくりと直視していけば、哀しみはいずれ愛(かな)しみに変わり、それがまた、持続可能な深い供養にもなるだろうに、その違いは蓋をする限り知る由もなく、怖いだけのものという暗いサングラスがかかる。

そして、グリーフ経験に少しでも触れることは、タブー視するかのような変なバイアスがかかる。

そこでは、本来、「生と死」というニコイチの在り方は、切り離されるものとなってしまうのではないだろうか?

このことは、この間まで愛する存在の介護はしつつでも、心情的には予期グリーフから目を背けようとしていた自分からも予測できる。

なるほど、ケアの普及が望まれるという背景が、少しずつだが肌感覚で吸収できてくる感じがする。

(投稿内容は、以上です)。

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